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「平和」「正義」
それにしてもまー次から次から、自爆テロや悲しい空爆犠牲、普通の生活の中で起こる、事件事故、虐待、軽井沢での事故の訃報、台湾の地震など、心に突き刺さる事ばかりの正月ですね。。なにかと、イライラしませんか。そのなかでも世界大戦などと違って、チリも積もる的な人の死の結果としての甚大さ。毎日ですよ、毎日。少しずつ少しずつ減っていく。子どももおとなも。おかしくないですか。ジカ熱。エボラが静まったばかりで。。人とともに拡散の意思をしめす、他生物の脅威。けれども、心の深層にとどいている一番のイライラの原因は、やはり自爆テロでしょう。避けては通れない骨肉の争いが家庭に入り込む。
今回のテーマは、聖書とコーラン。扱ったことのないテーマで少し苦労しました。政治と宗教には触れない生活を目指して折りますが、昨今はそうもいきません。しかも、いつものノリでは書けないし。種本は2冊です。下にあげておきました。さてコーラン、これを我々外の世界の人間が直接読み込むのは難しい。探すと、ちょうど、アメリカの女性ジャーナリストのものが電子本でありました。カーラパワーさんの本でした。
以下、キーワードは、「平和」や「正義」と言うことで。
まず、大切な両者の違い。イスラム教においては、イエスは預言者のひとりで、最後の預言者がムスリムであるようだが、逆にキリスト教では、ムスリムを預言者と認めていない。しかし、私のように無宗教な人間からみると、双方がイエスとムスリムを認め合っていることに変わりはないように見える。そこで違いではなく、まず、キリスト教とイスラム教の共通点というところにスポットを当ててみるところから始めますね。。
「天使」がそう。天使はユダヤ教、イスラム教、キリスト教における神の使いである。また、方舟のノアは旧約聖書(ユダヤ教経典)にでて来るが、イスラム教でも預言者の一人である。旧約聖書(ユダヤ教経典)では預言者モーセの遺体を運ぶ天使ガブリエル。イスラム教では、ムハンマドに度々現れては、神の意思を伝えるが、キリスト教でも、マリアに現れ、イエスの受胎を伝える受胎告知を行うのである。では、そのガブリエルが、コーラン(イスラム教経典)で、マリアに告げる言葉を文献から転写してみる。これは発見だった。「コーランの一節にも、『かしこくも、アッラー様の嬉しいおつげじゃ、(お前は)神から発する御言葉を(産みまつるであろう)。その名はメシア。マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)。その御方は現世にても来世にても高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう。揺籃の中にあっても、また成人してからも人々に語りかけ、義しき人となられるであろう。』」とある。どうだろう。私には目からウロコ。聖書ではなく、コーランからの引用である。
両経典の相似だけでなく、宗派、というものにこだわらない聖書研究などでは、驚くことも多いみたいだ。キリスト教の敬虔な司祭が、研究者としてイスラム神秘主義の源流となるハッラージュ(イスラム神秘主義者)を現代に蘇らせたり、20世紀の著名なヒンディー教のガンジーが、イエスを敬愛して、福音書を読んで目覚めたことが、インドの独立運動の前だったようだし、その前になると、ヴィヴェーカーナンダという19世紀のインドの思想家が、キリスト教の人々にむかってキリストに帰れといったりしている。それらを「イエス伝」で紹介する著者の若松は、使徒達が自分のアイデンティティーをぶつけ合っているとき、つまりだれが一番偉いかなど言い争っている時に、幼児を抱き、彼らの中央に立ち、使途たちを諭すイエス。その一場面を想像して、仏教の曼荼羅絵の相似に触れたりしている。ただただ神の預言者たる神や人の本質にせまりたい追求者たちにとっては、各宗教者とは違うイエス像、ムハンマド像であるようだ。
さて、本題に入る。平和、正義、そしてその対語としての偽善、そして地獄の業火についてである。(つづく)
●文献
1)カーラ パワー (著), Carla Power (原著)(2015),「コーランには本当は何が書かれていたか?」, 文藝春秋
2)若松 英輔 (2015),「イエス伝」,中央公論新社